十杯機嫌 〜飲んで飲んで、たまに犬〜

酒好きふたりと酒嫌いな犬。

わたしの死生観。

私は子供の頃から親戚付き合いが親密だったこともあって、割と多くの人を見送ってきた方だと思います。両親それぞれの祖父母、義理の母、そして私のお父さん。身内だけでも6名になり、それぞれ強く記憶に残っています。母方のおじいちゃんが突然亡くなったとき、霊安室で私と妹のアオコが一緒にいて、おじいの足首を触わりながらアオコが「おじいちゃんが冷たい」と嗚咽したこと、もう意識のないお父さんに「待ってて!すぐに行くから!」と叫んだこと。死はいつも残酷で無情で避けて通れないものであることを思い知らされてきました。死ぬということは冷たくなること。体温を失うこと。声を聞くことができなくなること。笑ってはくれないこと。いまはまだ体温のあるあたたかい犬を撫でながら、いつかこの子が冷たくなることを想像してしまうのも仕方ありません。

 

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だだ、死に対しての意識が変わってきたことも事実です。義母(とーちゃんのお母さん)が病気で亡くなったとき、ふっとお母ちゃんが私の近くというか私の中にいるような感覚になった。あ、お母ちゃんここにおるんやなと思えて、なんだか心強く感じたのです。そしてお父さんのときも「また会える」という希望すら感じるように変わっていって、またお父さんたちに会うために生きていけばいいと思うようになりました。あの人たちはちゃんと私の中に生きていて、それは一緒にいたからこその教えとか経験とかだけでなく、存在としてここに居る。私たちを見守り助けてくれている、ということをありありと感じるようになったのです。

 

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別れてしまう辛さを味わうなら誰とも付き合わない方がいいんじゃないかという極論を考えたこともありますが、やっぱりそれは違う。人と交わることはそれだけ自分の居場所をつくることであり、それが私の生きた証になる。私がいなくなっても少しは誰かの中に生き続けることができる。それが生まれてしまった、生きてしまったからこそのやらなきゃいけないことなんだと思っています。先祖から引き継いだ命を有意義なものにしないといけないという当たり前のことなんかもしれんけど。

 

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先日、有名な女性が亡くなりニュースになりました。がんに向かい、戦う姿は広く知られ、多くの人の励ましと応援を力に変えていたことだと思います。こうなってしまったことにはもちろん無念だろうし、運命を呪う気持ちになっていたやろう。でも、どこかでこれ以上逆らえないと気づいたときに、家族の中に残り続ける希望をもっていてたらいいな、と個人的には思っています。私ならあんなに強く、我慢強く戦えただろうかと振り返るし、彼女の芯の強さに改めて敬服します。もうがんばらなくていいから、私が感じたように家族に永遠に寄り添ってあげてください。生き抜く姿をみせてもらいました。ありがとうございました。