先日faceookを見ていたら、いいなあと思った投稿に出会いました。リアルなお友達ではないけれど、いつも書いてはることが興味深くてちょくちょく読んでいる広告代理店勤務のとあるおじさまの書き込みです。ちょっと引用させてもらいますね。
「人は関係の結び目に過ぎない」
「星の王子様」を書いた
サン・テグジュペリの言葉です。
私という人間の真ん中に、
確固たるものはありません。
人間関係の一本一本の糸が
結ばれて関係ができている。
その結び目の「コブ」のような
ものが自分です。
なので、友だちが死ぬと、
その一本が切れてしまいます。
自ら動かなければ、
「関係」は生まれず、糸を
自分にかけてくれる人はいません。
交友関係をおろそかにすれば、
大きなコブに見えても糸は痛み、
何かの拍子にブツブツと切れて
しまうでしょう。
糸が一本、一本失われたら、
存在が希薄になってしまう。
それが「自分」です。
これを読んで「そうやなあ」と思いながら、いま私に結ばれている太かったり細かったりするさまざまな糸を思い、また切れてしまった糸についても想像しました。いつかこの結ばれた糸がすべてなくなってしまうときが死を迎えるときなのか。もしくは生きている間にも、小さい小さいコブとなってしまうときがくるのか。私につながれた大切な糸を思い、確かなコブとしての自分を感じました。
そんなとき、うちの妹がTwitterにこんなつぶやきを残したのです。
『闘病中の末期の夫は「逝く時、一緒に連れてって」と言った愛妻に「君には子供や孫を、見守ってもらわなあかん」と諭したそうな』
母と妹が晩ご飯を食べながら、お父さんの思い出話でもしていたのでしょうか。このつぶやきを見て、お父さんという太い糸を失い、小さなコブになりつつある母が浮かびました。「あんたにはまだ糸がつながってるやないか」とお父さんは言うたのですね。お父さんという太い糸に巻かれ、強く結びついて長い人生を送ってきたお母さんの喪失感、浮遊感は、3年前にお父さんがいなくなってから相当なものだったと思います。しかしこのまま小さいコブになったらあかん。できるならば、もっと新しい糸とたくさん結びついて、お母さんのコブをまだまだ大きく育ててほしい。生きてるってことはそういうことなのですよ、やっぱり。いくつであっても。
行き遅れの三女も、育ち盛りの子どもが2人もいる次女も、へんてこなダンナと忙しく暮らしている長女の私もまだまだ面倒かけますから、私たちにつながれた糸をもっと大事にしていきましょう。末長くよろしく。