私のお母さんKZ子は三姉妹の真ん中で、両親は高知の生まれながら大阪に出てきて商売をはじめました。銭湯をした後に連れ込み旅館、ラブホテルをつくり、私の母方のおじいちゃんおばあちゃんの記憶はこのホテル「金閣」からはじまります。金閣は昔のラブホさながらで、入り口で靴を脱いでもらい、お部屋まで中居さんが案内するシステム。一階にはスタッフが集う「帳場」と奥に台所と大きなテーブルがある部屋があり、私たち子ども軍団はこの帳場か台所か二階の一室「アメジスト」(通称アメ)で遊ぶことが許されていました。アメは部屋のひとつなのでテレビと大きなベッドとトイレとお風呂がある小さな部屋でしたが、子どもが遊ぶのには充分。ちなみに金閣のお部屋はすべて、宝石類の名前に由来した名前がつけられていました。サファイヤとかルビーは洋室のしつらえで、石庭など和風の名前の和室のしつらえの部屋もあり、ラブホといえども裸の外人のおねいちゃんの写真が一枚ベッドに貼ってあるくらいで、私の記憶ではそんなにラブホラブホしてない印象です。昭和の名曲のシングルレコードが入ってるジュークボックスもあったしね。
子どもたち、というのは、私と妹たちだけでなく、お母さんの姉の子ども、私にとっては従兄弟となる兄ちゃんふたりがいました。この従兄弟たちとは子ども時代、金閣でよく一緒に遊びました。彼らの母親、つまり私たちにとって叔母さんとなるSNEちゃんは長女として旦那に婿に入ってもらい、金閣の経営に携わっていました。婿になったおっちゃんは、金閣のガレージ担当をしていて、ガレージの隅にある小さな部屋で、夏の日は扇風機を、冬の日は電気ストーブをかけていつも小さいテレビを見ていました。うちのお父さんとは若い頃から仲がよかったらしいですが、ともかくおっちゃんはまともな仕事に就くのを嫌っていたようです。
金閣の最上階におじいちゃんとおばあちゃんが住んでいたので、私たちにとってはここが母親の実家です。夏のいくたまさんのお祭りには浴衣を着せてもらい、従兄弟の兄たちと手をつないで夜店を遊びました。大人たちは台所に集まって酒を飲み、おじいちゃんは「あのロープ引く当て物は絶対やったらあかんぞ、お前ら」と言い、おっちゃんは「屋台のイカ焼きを買うたらあかん。◯◯の店で買うてこい」と千円札を子どもに渡していました。うちのお父さんは飲んだ後に麻雀に行ってなかなか帰って来ずお母さんを怒らせていました。
年末にはガレージで餅つき大会をします。おっちゃんが餅米を蒸して運び、他の男たちが杵を持ち、おばあちゃんが手を濡らし、掛け声をかけながら上手に返します。私たち子どもはつきたての餅を丸めて「あんこがいい」「きのこがいい」などと言いながらお腹いっぱいお餅を食べました。お正月1日は金閣もお休みして親戚みんなが集まり、石庭の部屋で鍋を食べました。退屈した子どもたちはアメで隠し芸大会を見てました。みんなマチャアキにしびれていました。
そんな風に季節の行事を楽しみにしていた子ども時代が過ぎ、おじいちゃんが亡くなり、金閣も終わりました。金閣はマンションに建て替えられて私たちが遊んだ昭和のラブホはなくなりました。そのあとおばあちゃん、うちのお父さんが亡くなりましたが、従兄弟の子どもたちが成長して子どもが生まれ、新しい家族も増えています。こうして私のいるステージが変わっていきます。いつまでもあのときの子どものままでいたいのに時間はそうはさせてくれません。大人たちが順番に順番に姿を消して私たちの立ち位置が上がってしまう。イヤやなあ。なんとかならんのやろうか。どうもならんのか。そんな気持ちになったのがこの度のおっちゃんの死でした。2月5日に亡くなりました。肝硬変による多機能不全だったそうです。83歳でした。
仕事嫌いのおっちゃんでしたが、私たち三姉妹のことを可愛がってくれました。小さいときは遊びに連れていってくれたり、プレゼントをくれたり。「おっちゃんはかっこええなあ。お父さんとは全然違うわ」なんて子供心に思ったものです。おっちゃんはスポーツが好きで、中年期以降は女子高のソフトボール部の監督をやっていたのですが、今回のお通夜やお葬式にたくさんの教え子が弔問に来てくださったのには驚きでした。もう20年以上も経っているのに、涙を流して見送ってくださる姿におっちゃんの私たちの知らない一面を見ました。おっちゃんの人生は幸せやったのかな。どうでしたか。あっちの世界でお父さんとまた美味しいお酒を飲んでくださいね。私たち姉妹を可愛がってくれてほんとうにありがとう。
今度のおっちゃんの法事に、もうあの店はないけどどこかでイカ焼きを買って供えたいなと思っています。「典子、これとちゃう」って言わんといてや、おっちゃん。