十杯機嫌 〜飲んで飲んで、たまに犬〜

酒好きふたりと酒嫌いな犬。

あの雪の日。

もうすぐ2月やなあとぼんやり考えていたら、もう10年以上にもなるあの日の光景がよみがえってきた。もう春やねという気分を突き落とすような2月の大雪。珍しく大阪市内にもしっかり積もり、ベランダから見下ろした白い光景がくっきりと思い出される。この日はお母さんも妹も体調を崩し、「かまへん、今日は私が行くよ」ととーちゃんのノースフェイスのごついダウンを着込んで家を出た。お父さんのいる病院へ。

 

ステージ4の肺せんがんで抗がん剤治療をしなが入退院を繰り返していたお父さんは、ふさふさやった髪が少なくなったもののそれでもお父さんらしい佇まいを保っていた。これはかなり私たちに安心を与えていたと今になって思う。入院中はお母さんが毎日堺市の実家から大阪市内の病院に通って惜しむようにそばにいた。「お父さんは毎日氷を欲しがるから下の売店で買うていったって」と言付かり、ざくざくと雪の道を歩く。

 

お父さんはいつものようにベッドの中からテレビを見ていた。この日は日曜日で、なんでも鑑定団の再放送にチャンネルを合わせて2人でぼんやりと見る。「なあお父さん、落語聞かへん?」とiPodとスピーカーをセットしてテレビを消し、桂米朝さんの落語を流した。個室に響き渡る米朝さんの艶やかな声。私は窓辺の椅子に座り、落語を聞くともなく小説を開いた。向かいに見える大阪城の雪は日差しを受けて溶けてきている。お父さんは何も言わず落語に耳を傾けていた。

 

「ワシ、この落語知ってる」と突然話し出した。しばらくこの落語にまつわる話をなにかしていたけど、小説が気になって曖昧にしかお父さんの話を聞いてなかった。悔やまれるなあ。この日が最後の会話になったのに。何をしていたのか私は。

 

お父さんが「ワシ知ってる」と言うたあの落語はなんやったやろうかとふいに思い立って、昨日とーちゃんに聞いてみた。米朝さんで、確か犬が出てくるお話やねん、と言うと「それは鴻池の犬やろ」と親父。そうかそうか、確かそんな題名やったような気がすると、YouTubeで探して聞いてみた。ああきっとこれや。あのとき何をお父さんは話してたのかな。この落語にどんな思い出があったんやろうか。確かめようにもないけれど。

 

米朝 鴻池の犬 - YouTube